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archief voor stambomen

系統樹ハンターの狩猟記録

Ernst Haeckel のナチス的家系分析

The Nam Family』と同様の優生学的動機のもとに特定の家系を探索したもう一つの例は,Heinz Brücher による Ernst Haeckel 家の分析である:

Heinz Brücher『Ernst Haeckels Bluts= und Geistes=Erbe : Eine Kulturbiologische Monographie』(1936年刊行,J. F. Lehmann, München → 目次).

1936年,ドイツの大学都市イェナでハインツ・ブリュッヒャー(Heinz Brücher, 1915-1991)が出版した本書『エルンスト・ヘッケルの家系的および精神的系譜:文化生物学的モノグラフ』と銘打たれたこの本の唯一の目的は,19世紀のドイツを代表する進化学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel, 1834-1919)の家系と親族を約200ページにわたって詳細に分析することだった.数多くの由緒ある王家や貴族の血統譜がある中で,わざわざある生物学者の,それも選ばれし家系とはとうてい思えない一族の系譜をことこまかにたどった裏にはそれなりの理由があったはずだ.

何よりもこういう本が書かれた背景が とてもおもしろい.もちろん本人ヘッケルはとうに亡くなっているのだが,たとえ超有名人であったとしてもある一族の“家系”をたどるためだけにおよそ200ページもの紙数が費やされ,さらには長さ2メートルに達する“家系図”が2葉も添付されているというのはただごとではない.この本を手に取って読み進んだのはいったい誰だったのか.

著者は,エルンスト・ヘッケルの血統の中に,「北方民族の精神史がもつ不滅の価値」を見いだそうとする.ナチス親衛隊に属していた著者にしてみれば,アーリア人種の卓越性を証明する格好の事例がヘッケル一族だったのだろう.しかし,話はそれだけにとどまらない.第二次世界大戦が迫ってきたこの時代に,弱冠20歳そこそこの若手研究者が単行本を出せた背景には,もっと大きな流れがあった.

まず,この本はイェナにあった「家系研究ならびに人種政策研究所(Institut für menschliche Erbforschung und Rassenpolitik)」なる機関の出版物として公刊されたものだ.この機関は,ワイマールのチューリンゲン内務省の「チューリンゲン人種制度局 (Thüringisches Landesamt für Rassewesen)」に属していたらしい.

当時のドイツ国内の情勢を考えれば,チューリンゲン人種制度局長の手になる本書の序言(Vorwort)に「アドルフ・ヒトラー総統」とか「アーリア的」とか「国家社会主義」という言葉がぽんぽん出てきても不思議ではない.序言は以下の通り

>> エルンスト・ヘッケルの精神的遺産は,生命の科学と熱烈な信念がもたらした人種(Rasse)と民族(Volk)が従うべき命の法則を確固として守りそして闘うすべての人にとって今なお価値がある.エルンスト・ヘッケルの人種的ならびに精神的系譜を本書が高く崇敬するのは,この意味で,北方民族の精神史がもつ不滅の価値に対して後の世代が抱く信仰心の発現とみなされるべきである.(S. 7)<<

系図学史の中でももっとも“黒い部分”がしだいに見えてくる.著者ブリュッヒャーはあとがきの中で,巻頭言(Geleitwort)を寄稿したイェナ大学学長カール・アステル(Karl Astel, 1898-1945)の全面的な支援を得て,本書の出版が実現したと述べている.このカール・アステルなる人物は,ナチス時代のドイツでアドルフ・ヒトラーとハインリッヒ・ヒムラーの庇護のもと,民族衛生および人種政策の科学的研究を積極的に押し進め,さらには全国的な禁煙運動を率いた中心人物として知られている.しかし,それ以外に,アステルには,家系探究の方法論を確立した研究者としての顔もあった.

アステルの家系探究の方法論の根幹は,従来の血統譜が直系の祖先だけを記していたのに対して,傍系の親族をも含めた包括的な血縁譜(Sippenschaftstafel)の作成にあった.この網羅的な家系分析を通じて,ナチスにとって望ましいアーリア人種とそうでないユダヤ人種とを徹底的に分けようという意図があったことは疑う余地がない.

ブリュッヒャーは,本書全体の方法論的な基盤が,アステルの提唱する血縁探究法にあることを明言する:

>>今日,系譜生物学的(erbbiologisch)な血縁探究(Sippenforschung)は,もっぱら Karl Astel の提唱する「血縁探究法(Sippschaftsmethode)」の上に築かれている.Astel こそは,人種生物学的(rassenbiologisch)な家系学(Familienkunde)を構築し,彼のおかげで家系研究はより包括的なレベルに引き上げられたのである.その結果,直系先祖だけが記されていた旧来の先祖表(Ahnentafel)が修正されて,傍系先祖(Seitenverwandten)がそこに付け加えられることになった.(S. 12)<<

これだけであれば,かつてのドイツに花開いた血縁研究史のエピソードのひとつに過ぎないのかもしれない.しかし,まったく同じ登場人物たちは別の劇にも顔を出す.当時のドイツの状況を知るために,Anne Harrington『Reenchanted Science : Holism i German Culture From Wilhelm II to Hitler』(1996年刊行,Princeton Univeristy Press,ISBN:0691021422 [hbk])をひもとくと,次のような記述が見える:

>>ナチ時代の初期から,科学者たちの中にはナチス党に関わりをもつグループが大きく二つあった.第一のグループは,あるイデオロギーを帯びた科学者集団であり,彼らは全体論的思考に同調しつつ,民族主義的な反ユダヤ主義とアーリア人種至上主義を信奉した.…[中略]… 第二のグループは,よりプラグマティックな医学者の集団であり,彼らはより厳密なメンデル遺伝学,ダーウィニズム,そして人種生物学をもってナチの社会政策や軍事戦略の基盤とすべきであると主張した.この第二のグループの活動を支えていたのは Heinrich Himmler の率いる SS[=ナチス親衛隊]だった.このグループを構成したのは,人類遺伝学者の Karl Astel ,そしてイェナで彼の助手をつとめた Lothar Stengel von Rutkowski,植物学者の Heinz Brücher,そして法学および人種学教授の Falk Ruttke だった.…[中略]… Astel は1935年に Himmler に対して,民族衛生学の大学ポストは SS 構成員が占有すべきであると進言した.1939年にイェナ大学の指導的地位に就いた Astel は,その後,イェナ大学を SS の教育と政策立案のための中心地に変えるべく精力を傾注した.(p. 195)<<

要するに,とても“大もの”だったわけね,アステルって.アステルに比べれば,著者のブリュッヒャーなどただのマリオネットみたいにさえ見えてしまう.ドイツ語版ウィキペディアの「Karl Astel」の項目には詳細な情報が載っていて,アステル第三帝国が崩壊した1945年に執務室で自殺したと書かれている.一方,「Heinz Brücher」の生涯(1915~1991)は戦後も長く続いた(最期は,終戦後亡命した南米アルゼンチンでの麻薬密売に絡んで殺された).しかし,弱冠21歳のときの本書が,結局ブリュッヒャーにとっての唯一の著書だったようだ.

いずれにしても,ブリュッヒャーは,アステルのこの家系探究理論にしたがって,ヘッケル一族の血縁譜をふたつ作成し,この本の末尾に付録として添付した.一方は,収集し得るすべての親族の肖像写真を添えた幅1メートルの血縁譜である(→写真1).他方は,ヘッケルを中心として直系・傍系すべての親族の生没年・職業・身体的特徴・病歴などがびっしり書きこまれた幅2メートルもの大がかりな血縁譜だ(→写真2).伝統的な血統譜の基本的書式を守りつつ巨大化したこれらの血縁譜を「絵言葉」として見たとき,われわれはそこにこめられたさまざまなメッセージ(政治的なスローガンも含めて)を読み取る眼力が試されていることを知るだろう.

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