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系統樹ハンターの狩猟記録

別軸としての科学哲学(a.k.a. #ParsimonyGate)

いまハッシュタグ#ParsimonyGate」が炎上している.そもそもの導火線は Cladistics 誌最新号の巻頭記事: Editorial. Cladistics, 32(1): 1. DOI: 10.1111/cla.12148, 12 January 2016 だった.この記事がある方面でトンデモなく叩かれているようだ.Altmetric とか The Tree of Life | Cladistics Journal Drops Science for Dogma, 16 January 2016 では,「Possibly the worst editorial at a science journal ever」だの「Back to the Cold War of systematists」だの「Cladistics or Creationists?」だの,さんざんな貶されようだ.

 Editorial 冒頭の「The epistemological paradigm of this journal is parsimony」などという一文は The Wiili Hennig Society ではごく当たり前の認識なので「時代錯誤」だの「冷戦復帰」と叩かれるいわれはないだろう.あれくらいで炎上しているようじゃ,Cladistics 誌の Forum や Letters 欄で戦わされている記事群の “口汚さ” はガマンできないんじゃないか.第一,いまのCladistics 誌は最節約法だけではなく最尤法やベイズ法を用いた論文だってちゃんと掲載されている.ただし,この Editorial 記事の最後にある「Cladistics will publish research based on methods that are repeatable, clearly articulated and philosophically sound」という主張から透けて見える WHS 主流派の考えは,系統推定のさまざまな方法論がそもそも科学哲学的に妥当(「philosophically sound」)なのかという点に読者の注意を向けさせる.

 生物体系学論争が燃え上がった1970〜80年代に比べれば,21世紀の現在は系統推定論をめぐる “哲学論議” が戦わされることは少なくなってきた.しかし,たとえば,Systematic Biology 誌, volume 50, issue 3, 2001 の特集に端を発する「最尤法-最節約法 Popper 論争」を見れば,系統推定法としての technical soundness と philosophical soundness とは別軸で論議されるべきものであり,一方が他方を保証しているわけではないことがよくわかるはず:

  1. Richard Olmstead 2001. Phylogenetic Inference and the Writings of Karl Popper. Systematic Biology, 50(3): 304 doi:10.1080/10635150120308 pdf
  2. Kevin de Queiroz and Steven Poe 2001. Philosophy and Phylogenetic Inference: A Comparison of Likelihood and Parsimony Methods in the Context of Karl Popper's Writings on Corroboration. Systematic Biology, 50(3): 305-321 doi:10.1080/10635150118268 pdf
  3. Arnold G. Kluge 2001. Philosophical Conjectures and Their Refutation. Systematic Biology, 50(3): 322-330 doi:10.1080/10635150119615 pdf
  4. Daniel P. Faith and John W. H. Trueman 2001. Towards an Inclusive Philosophy for Phylogenetic Inference. Systematic Biology, 50(3): 331-350 doi:10.1080/10635150118627 pdf
  5. James S. Farris, Arnold G. Kluge, and James M. Carpenter 2001. Popper and Likelihood Versus “Popper*”. Systematic Biology, 50(3): 438-444 doi:10.1080/10635150119150 pdf
  6. Kevin de Queiroz and Steven Poe 2003. Failed Refutations: Further Comments on Parsimony and Likelihood Methods and Their Relationship to Popper's Degree of Corroboration. Systematic Biology, 52(3): 352-367 doi:10.1080/10635150390196984 pdf

 日本の生物体系学コミュニティーは,ごく一部の “outlier” たちを除いては,もともと哲学論争がまったく好きではなかった.その点は今世紀はじめにワタクシたちがまとめて発表したとおりである(三中信宏・鈴木邦雄 2002. 生物体系学におけるポパー哲学の比較受容. 所収:日本ポパー哲学研究会(編)『批判的合理主義・第2巻:応用的諸問題』, pp.71-124. 未來社,東京 → 目次).「philosophical soundness」を差し置いて,「technical soundness」のみに集中できる学問的雰囲気はあるタイプの研究(者)にとっては居心地がいいかもしれない.

 現状を見ると,最尤法とかベイズ法の論客たちには「科学哲学的」に論じようという内的動機がほとんど見えないのがむしろ大きな問題かもしれない.科学哲学的・認識論的問題なんかはデータと統計ツールがあればスルーしておっけーと考えているのか.そして,そういう「technically sound」な手法群しか知らない(もっと若い)世代はどうやら「philosophically sound」かどうかという論点があることすら認識していないようだ.あまつさえ,科学史まで自分たちにとってつごうのいいように適当にでっち上げているみたいだし.

 しかし,系統推定は,配列データがたくさんありさえすれば決着が付いたり,ソフトウェアを何万世代か走らせればケリがつくわけでは必ずしもない.そのことを知っておかないと,科学哲学的(場合によっては科学社会学的)な “戦争” がときおり勃発したときに丸腰のまま “戦場” に放り出されて無慈悲になぎ倒されかねない.そうならないためにも,生き延びるすべとして自分の “哲学的武装” を錆びつかせないように怠りなく手入れしておきたい.科学という軸は誰の目にもよく見えるが,科学哲学というもうひとつの軸はいつもそれほど明確に見えるものではない.しかし,「見えない」は「存在しない」と同義ではない.それは埋み火のごとく隠れているだけである.

 #ParsimonyGate の延焼はその後も続いている:Judge Starling[Dan Grauer] | Once Upon a Time at a Willi Hennig Society Meeting #ParsimonyGate | 16 January 2016.WHS の雰囲気は今も変わりがない.Dan Grauer が “タコ殴り” された翌年には,Keith A. Crandall が犠牲者になったことは,その場にいたワタクシがよく知っている:「In the next WHS meeting (São Paulo 1998) Keith A. Crandall was the "Punch-Bag" for Steve Farris and other hard-core cladists!」.あれはきっとWHS特有の “黒ミサ” みたいなもんなんだろう.

 この機会に,ワタクシがこれまで参加してきたウィリ・ヘニック・ソサエティ年会の記録(1998-2013+)をすべて公開した:ポータルサイト →〈The Willi Hennig Society Meeting Reports〉.意義があるから記録するのではなく,記録するから意義が生まれる.飽くことなくひたすら記録し続けることを旨とせよ.

 

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